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Tuesday, August 11, 2020

「少数派」逃れようと軍国少年に…「戦争責任」背負う牧師 関田寛雄さん(91) - 東京新聞

<20代が受け継ぐ戦争 戦後75年(中)横浜支局・丸山輝平(26)>

◆暴行受け「キリスト教徒でいることは危ない」

 「あの頃は、誰よりも軍国少年と言い切れるほど無我夢中に頑張った。普通の日本人より人一倍、日本人になろうとしてね」

 川崎市のキリスト教会で牧師の関田寛雄さん(91)から聞いた話は、記者5年目の私が知らないことばかりだった。
日本基督教団牧師の関田寛雄さん(左)に戦時中の体験談などを取材する本紙の丸山耀平記者=川崎市川崎区の在日大韓基督教会で

日本基督教団牧師の関田寛雄さん(左)に戦時中の体験談などを取材する本紙の丸山耀平記者=川崎市川崎区の在日大韓基督教会で

 父親が牧師で4人兄弟の末っ子だった関田さんは、大阪府吹田市に住んでいた幼い頃に洗礼を受けた。小学5年生の時、同級生から「アメリカのスパイ」「キリスト教徒なんかやめろ」と罵声を浴びせられ、殴る蹴るの暴行を受けた。

 日中戦争が始まり、米国との緊張も高まっていた時期。血と泥にまみれた関田少年は「日本でキリスト教徒でいることは危ないんだ」と感じたという。

 中学生になると、軍事教練に積極的に励んだ。「お国のために死ぬことが良いこと」と話して教師に褒められ、戦場に向かう先輩の姿を見て「後に続こう」と同級生に呼び掛けた。周りから尊敬されていく自分を誇らしく思ったという。

 「クリスチャンであることと、軍国少年を目指すことに葛藤はなかったんですか」。私がそう尋ねると、関田さんは眉をひそめて言った。「キリスト教徒という少数派でいる自分が、良くないと思ってたんだよ」

◆「スコップが遺体に当たった感触、今も残っている」

 太平洋戦争末期の1945(昭和20)年、関田さんは学徒動員により大阪の陸軍工廠こうしょうで薬品の梱包こんぽう作業をしていた。米軍の空襲で同僚たちが亡くなるのを見た。8月7日には、全てのやけどの薬品に「広」と暗号を付けて出荷。広島の原爆被害の対応だった。それでも「日本は勝っている」と信じていたが、8日後に玉音放送を聞く。

 戦後のラジオ番組で、敗戦の真相を知った。ミッドウェー、ガダルカナル、インパール。「だまされた」と衝撃を受けつつ、「お国のために死ぬ」と周りに言い続けた軍国少年としての「戦争責任」を感じたという。戦後、空襲で死んだ同僚らの遺体を掘り出す作業をし、「スコップが遺体に当たった感触や臭いは、今も手や鼻に残っている」と話す。

 関田さんは当時、17歳。私が普通の高校生活を過ごしていた年齢で、とてつもない思いを背負わされていたことに、がくぜんとした。

◆少数派が不遇に遭う理不尽さ、許さない社会目指して

 関田さんは57年に牧師となり、川崎市の桜本地区の新しい教会に住み込んだ。朝鮮半島の植民地支配や戦争により翻弄ほんろうされた在日コリアンが多く住む地域。公立学校や企業に入れない姿を目の当たりにした。

 少数派が不遇に遭う理不尽さを許せず、同時に自分の「戦争責任」を感じた。日立就職差別訴訟の支援など、牧師としての活動の大半を在日コリアンの差別解消に費やした。「ヘイトスピーチを許さない かわさき市民ネットワーク」代表も務め、今年制定されたヘイトスピーチに罰金を科す全国初の市条例実現にも尽力した。

 関田さんの人生にずっと関わってきた「少数派」。話を聞き、私が今年、裁判を取材した相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」殺傷事件が頭をよぎった。社会の多数派と異なるだけで排除される―。それは戦争の時代に限らない。

 今は千葉県大網白里市に居を移して過ごす関田さん。「少数派が排除されない平和な社会をつくるには、どうすればいいのでしょう」。私の問いに、「真実を後世に残していくこと。それが平和につながる」と力強く語ってくれた。同じ悲劇を繰り返さないよう、私たちの世代がどう平和を守り続けていくか。自分に問い続けている。

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