<20代が受け継ぐ戦争 戦後75年(中)横浜支局・丸山輝平(26)>
◆暴行受け「キリスト教徒でいることは危ない」
「あの頃は、誰よりも軍国少年と言い切れるほど無我夢中に頑張った。普通の日本人より人一倍、日本人になろうとしてね」
父親が牧師で4人兄弟の末っ子だった関田さんは、大阪府吹田市に住んでいた幼い頃に洗礼を受けた。小学5年生の時、同級生から「アメリカのスパイ」「キリスト教徒なんかやめろ」と罵声を浴びせられ、殴る蹴るの暴行を受けた。
日中戦争が始まり、米国との緊張も高まっていた時期。血と泥にまみれた関田少年は「日本でキリスト教徒でいることは危ないんだ」と感じたという。
中学生になると、軍事教練に積極的に励んだ。「お国のために死ぬことが良いこと」と話して教師に褒められ、戦場に向かう先輩の姿を見て「後に続こう」と同級生に呼び掛けた。周りから尊敬されていく自分を誇らしく思ったという。
「クリスチャンであることと、軍国少年を目指すことに葛藤はなかったんですか」。私がそう尋ねると、関田さんは眉をひそめて言った。「キリスト教徒という少数派でいる自分が、良くないと思ってたんだよ」
◆「スコップが遺体に当たった感触、今も残っている」
太平洋戦争末期の1945(昭和20)年、関田さんは学徒動員により大阪の陸軍
戦後のラジオ番組で、敗戦の真相を知った。ミッドウェー、ガダルカナル、インパール。「だまされた」と衝撃を受けつつ、「お国のために死ぬ」と周りに言い続けた軍国少年としての「戦争責任」を感じたという。戦後、空襲で死んだ同僚らの遺体を掘り出す作業をし、「スコップが遺体に当たった感触や臭いは、今も手や鼻に残っている」と話す。
関田さんは当時、17歳。私が普通の高校生活を過ごしていた年齢で、とてつもない思いを背負わされていたことに、がくぜんとした。
◆少数派が不遇に遭う理不尽さ、許さない社会目指して
関田さんは57年に牧師となり、川崎市の桜本地区の新しい教会に住み込んだ。朝鮮半島の植民地支配や戦争により
少数派が不遇に遭う理不尽さを許せず、同時に自分の「戦争責任」を感じた。日立就職差別訴訟の支援など、牧師としての活動の大半を在日コリアンの差別解消に費やした。「ヘイトスピーチを許さない かわさき市民ネットワーク」代表も務め、今年制定されたヘイトスピーチに罰金を科す全国初の市条例実現にも尽力した。
関田さんの人生にずっと関わってきた「少数派」。話を聞き、私が今年、裁判を取材した相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」殺傷事件が頭をよぎった。社会の多数派と異なるだけで排除される―。それは戦争の時代に限らない。
今は千葉県大網白里市に居を移して過ごす関田さん。「少数派が排除されない平和な社会をつくるには、どうすればいいのでしょう」。私の問いに、「真実を後世に残していくこと。それが平和につながる」と力強く語ってくれた。同じ悲劇を繰り返さないよう、私たちの世代がどう平和を守り続けていくか。自分に問い続けている。
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